【土屋惣蔵昌恒】千の命を道連れに。武田家滅亡と土屋惣蔵の片手千人斬り伝説③

「武田家滅亡の道連れは千の命」――武田信玄で知られる甲斐の武田氏に仕え、最期の最期まで主君を守り、戦い抜いた土屋惣蔵昌恒(つちやそうぞうまさつね)。 その身は武田家と共に滅び去っても、その忠義、その武勇、その勇姿は、今も語り継がれている。敵からも称賛された惣蔵の「片手千人斬り」の活躍やいかに!
2019/04/10

惣蔵の勇名が子孫を助けた?

生母と田野を脱出した惣蔵の息子・忠直は、その後、どうなったのだろうか。

忠直は、生母とともに無事に落ち延びた。駿河国有度郡今泉村の楞厳院で養育され、のちに駿河国興津の清見寺に移る。

天正16年(1588)9月、10歳となった忠直に劇的な出会いが訪れた。

なんと徳川家康が、鷹狩りのために清見寺に立ち寄ったのだ。家康は忠直がお茶を出す姿に何かを感じ、「尋常の者ならず、何者の子ぞ」と住職に尋ねた。

 

「土屋惣蔵の子にございます」と住職が答えると、家康は「あの忠臣の子か!」と納得し、強引に忠直の身柄を引き取ったと伝わる。

 

この話通りではなかったかもしれないが、忠直が家康に拝謁し、その後、家康の側室・阿茶の局に養育されたのは確かである。

 

翌17年3月からは、徳川秀忠に仕え、近習を務めた。忠直は秀忠の寵愛を受けたという。

 

さらに、忠直には大きな幸運が待っていた。慶長7年(1602)に、上総久留里藩(千葉県君津市)2万1千石の大名となったのだ。

久留里城の模擬天守。久留里城には多くの観光客が訪れている。(撮影・清之介)

2代目となった忠直の嫡男の利直(としなお)も、将軍・徳川秀忠の近習を務めた。

 

ところが、3代目の直樹が、延宝7年(1679)8月7日に「狂気」を理由に改易になってしまう。

 

だが、直樹の長男・逵直(みちなお)は、遠江国周智郡内において3千石を新たに与えられ、旗本として家名を保った。

 

『藩士大辞典』によると、これは祖先、すなわち惣蔵の勲功が考慮された結果だという。惣蔵の勇名が子孫の家名相続を助けたのだ。

儒学者・政治家の新井白石の銅像。久留里城二ノ丸にある資料館前に佇む。  新井白石は、二代土屋利直に一時期仕えた (撮影・清之介)

惣蔵の孫、土浦藩主に

惣蔵の息子・忠直には、久留里藩を継いだ利直の他にも、数直(かずなお)という息子がいた。

 

惣蔵の孫にあたるこの土屋数直こそ、約200年の長きに渡って続く常陸土浦藩土屋家の家祖である。

 

数直は、寛文9年(1669)6月、4万5千石の土浦城主となった。

 

この数直を祖とする土屋家は、政直(まさなお)、陳直(のぶなお)、篤直(あつなお)、寿直(ひさなお)、泰直(やすなお)、英直(ひでなお)、寬直(ひろなお)、彦直(よしなお)、寅直(ともなお)、挙直(しげなお)と続いて、明治維新を迎えた。土屋家は封を守り通したのだ。

 

最後の土浦藩主となった挙直は、維新後、内務省御用掛兼勧農局事務取扱を経て、のちに旧藩士が新治郡三村(茨城県石岡市)で結成した樹芸社の開墾事業を助け、自らも土屋牧場を経営した。

 

明治17年には子爵を授けられている。

 

勝頼を見捨てた人々の中には、滅びゆく主君に殉じる惣蔵を愚かだと笑った者もいただろう。

 

だが、惣蔵のその忠義、その武勇、その勇姿は後世まで語り継がれ、見事に家名を繋いだ。

 

笑われても、敗れても、報われなくても――

 

それでも、信念を貫き、懸命に生きれば、誰かが見ていて、何かに繋がる――惣蔵の「片手千人斬り」の伝説は、そんな夢を見させてくれる。

惣蔵片手千人斬りの碑、逆方向から(撮影・清之介)

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