【新しい時代に希望をこめて】戦国時代、160年で21回も元号改正されていた。

平成が終わり、今年は改元の年ということで、 元号(年号)に興味をもたれた方も多いのではないでしょうか。 大河ドラマをはじめとする時代劇にも「永禄」や「慶長」など元号はよく登場しますよね。今回は、歴史好きに人気のある戦国時代の元号や、 改元にまつわる面白いエピソードをいくつか紹介していきます。
2019/03/23
目次

戦国の元号ランキング

戦国時代の元号はいくつ?

戦国時代を享徳の乱(1454年)から大坂夏の陣(1615年)までとした場合、

「享徳」から「慶長」まで、約160年のあいだに全部で21もの元号が使われました。

 

ほとんどの元号は、菅原道真の血筋を受け継いだ文章博士(もんじょうはかせ)と呼ばれる人たちによって考えられたものです。

 

“学問の神様”の子孫たちは、戦国時代も秀才ぞろいだったんですね。

戦国時代の元号

いちばん長く使われた元号は?

戦国時代にいちばん長く使われた元号は、「天文(てんぶん)」の23年3ヶ月です。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑が生まれ、少年時代を過ごした時期に相当します。

 

戦国時代の元号は、平均すると7~8年の通用期間ですので、「天文」はかなり長い間使われていたことになります。

 

長く続いた理由はいろいろありますが、改元したくてもできないほど、朝廷や幕府が弱体化していたというのが真相かもしれません。

 

ちなみに2位以下のランキングは次のとおりです。

2位:「天正」19年4ヶ月

3位:「慶長」18年9ヶ月

4位:「文明」18年3ヶ月

5位:「永正」17年6ヶ月

およそ30年4ヶ月続いた「平成」は、戦国時代のどの元号よりも長かったことになります。

戦国時代の三英傑

いちばん短命だった元号は?

戦国時代でもっとも短い元号は「文正」です。わずか1年ほどで改元となってしまいました。

改元の理由は、戦乱によるもので“兵革改元(へいかくかいげん)”と呼ばれます。

 

戦国時代の改元は、多くが兵革や天変地異といった災異によるものです。災異は、「天の戒め」だと考えられていました。

 

特に疫病の流行に対しては、僧侶による読経以外に、改元しか有効な手段がなかったというから驚きますよね。

次から次へと改元を繰り返した結果、「文正」のような短命な元号が多く誕生したというわけです。

 

短命元号ランキングの2位以下は次のとおりです。

2位:「長享」2年1ヶ月

3位:「康正」2年2ヶ月

4位:「応仁」2年2ヶ月  ※康正より実質20日長い

5位:「弘治」2年4ヶ月

鎌倉時代には、「暦仁(りゃくにん)」という、たった2ヶ月しかなかった元号もありました。…上には上がいるものです。

日照り地面

一代で6回も改元した天皇

戦国時代でもっとも多く元号を制定した天皇は、第103代・後土御門(ごつちみかど)天皇です。

「文正」から「明応」まで、36年の在位期間中に6回の改元をおこないました。

 

改元数が多いのは、天皇が気まぐれだったということではなく、それだけ世の中が混乱し不安定だったわけです。

 

11年間も続いた応仁の乱は、まさに後土御門天皇の時代のできごとでした。

 

戦国時代に在位した歴代天皇の改元数は次のとおりです。

 

※戦国時代以外は含みません

後花園天皇3回(康正・長禄・寛正)

後土御門天皇6回(文正・応仁・文明・長享・延徳・明応)

後柏原天皇3回(文亀・永正・大永)

後奈良天皇3回(享禄・天文・弘治)

正親町天皇3回(永禄・元亀・天正)

後陽成天皇2回(文禄・慶長)

後水尾天皇0回 

紫宸殿

戦国の元号こぼれ話

「康正」 都に妖星あらわる!

昭和61年(1986年)に、ハレー彗星が地球に大接近しました。

あの世紀の天体ショーを覚えている人も多いのではないでしょうか。

 

戦国時代の公家の日記『師郷記(もろさとき)』には、康正2年(1456年)の5月に、ハレー彗星と思われる彗星が、1ヶ月にわたって京都の空にたびたび出現したことが書かれています。

 

かつて彗星は「妖星(ようせい)」とよばれ、災いの前兆として不吉だと考えられていました。

 

怪しげに尾を引く彗星の出現が、飢饉や戦乱の治まらない「康正」を、わずか2年2ヶ月で改元へと追い込む引き金を引いたと言えるでしょう。

星空

「延徳」 できれば避けたかったあの1字

室町幕府9代将軍の足利義尚(よしひさ)が亡くなり、その5ヵ月後に「延徳」と改元されました。

ところが幕府は、この元号に難色を示したと言われています。

その理由は、“延”の字にありました。

 

じつは室町幕府の初代将軍・足利尊氏が亡くなった時の元号が「延文(えんぶん)」だったため、同じ“延”の字の付く元号は縁起が悪いというわけです。

 

足利義尚は出陣先で若くして病死したということもあって、幕府は悪い流れを払拭したかったのかもしれません。

 

「延徳」は、結局3年たらずで終わってしまいましたが、足利将軍はこのあと衰退の一途をたどっていくことになります。

足利尊氏銅像

「永正」 もはや難癖?クレームに耐えた元号

平安時代以来、幕末に至るまで、元号を決める際には会議において“難陳(なんちん)”と呼ばれる質疑応答がおこなわれました。

 

難は反対意見、陳は賛成意見で、吉凶や出典について議論を戦わせ、数ある元号候補を絞り込んでいきます。

 

「永正」改元の際の難陳では、“正”の字に対してかなり強い反対意見が出されたようです。

 

主な反対理由は3つ。

①「正」の字は“一たび止まる”と読むことができるため不吉。

②「正」の字はキミ(=天皇)とも読め、下の字に据えるのは不敬。

③「正」の付く元号は、「康正」「文正」「寛正」と災異が続いていて不吉。

漢字をバラバラにして読み直したり、意味をこじつけたりするあたり、難癖というよりは、頓智問答や言葉遊びになっているような気さえします。

 

これら重箱の隅をつつくような数々の反対意見に見舞われても屈しなかった「永正」は、

そのあと戦国時代で5番目に長い17年6ヶ月にわたって存続することになりました。

「大永」 タイエイ・ダイエイ、読むならどっち?

甲斐の虎・武田信玄が生まれたのは大永元年(1521年)、ちょうど「大永」に改元された年になります。

 

さて、この「大永」という元号ですが、みなさんは“タイエイ”“ダイエイ”どちらで読んでいますか?

 

じつのところ、改元の際の新元号にフリガナが付けられて発表されたのは「大正」以降で、「明治」以前の元号に関しては正確な読み方がよくわかっていません。

 

関ヶ原の戦いがあった「慶長」も、“キョウチョウ”と読んでいた時期があったそうです。

 

日本最初の元号は飛鳥時代の「大化」とされていますが、“タイカ”のほかに“ダイカ”とする説もありますし、平安時代の元号「大同」は“ダイドウ”です。

 

「大正」の例にならえば“タイエイ”かもしれませんが…、このあたりはもう好みの話になってしまいそうですね。

「天正」 信長時代の幕開け

安土桃山時代は、まさに“天正時代”とも言えるでしょう。

 

織田信長は「天正」の元号をとても気に入っていたようで、15代将軍の足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼすと、すぐに「元亀」から「天正」への改元を朝廷に求めました。

 

「天正」という元号は、中国の思想書『老子』にある“清静(せいせい)にして以って下の(せい)たるべし”という一節に由来しています。

 

織田信長の政治理念をあらわすスローガンには、有名な「天下布武」がありますが、

「天正」の元号にも、そういった信長の思いのようなものが込められていたのかもしれません。

 

「天正」はまさしく天下人・信長の時代の幕開けとなった元号です。

織田信長黄金像

いかがでしたか?

 

室町戦国時代の元号には、「文」と「正」の字が多く使われていました。

 

下剋上の風潮が広がる混迷の時代にあって、秩序の回復を神仏に願ったものなのかもしれません。

 

戦国時代の21の元号は、現代と同じく、新しい時代に希望をこめたラッキーネームだったわけです。