【マダム路子・自分史(第21話)】美容技術の習得と、赤い糸。

2020年7月7日に私は齢80歳を迎えた。自分史を書き始めたのは昨年の7月7日。1年を迎えたわけだが。今年、後半の1月から新型コロナウィルスが世界に拡散され、未だ解消のキメテがないままの状態は続いている。
2020/07/14

恐怖の実感

80才になった日

戦時中は、幼いため、本当の意味での「恐怖の実感」は希薄だったが、空爆下を逃げ惑った時だけは明確に恐怖の実感が残っている。

 

そして現在、80歳になるまでの長い人生で、味わった事のない焦りと混迷の日々だ。

 

さらに、猛烈な豪雨による災害が重なる各地の方々の不安や実害を慮り胸が痛む。

 

連日、メディアでは状況は報道されるが、解決、解消についての確たる情報は発令されていない。

 

世界は21世紀前半まで、地球に起こる様々な変化は技術で制すると考えてきた。

 

しかし、今、自然の驚異(温暖化等も)の前で成すすべも無く立ち止まっている。

 

戦中・戦後を通じ、人間が引き起こす災害(戦争)の怖さと、それによる激烈な体験が、自分史を書こうと決意した理由の一つでもあるのだが、もう一つ、戦火を逃れ富山県に疎開したその年の雪に閉ざされた記憶も忘れられない。

 

住居の2Fの窓からの出入りを余儀なくされた。

 

歩行は困難を極め、極寒に手足にはヒビ荒れやシモヤケが多発、私の中指には、そのときにできたシモヤケ痕が今も、うっすらと残っている。

 

天変地異は奢れる人間を懲らしめるための神の意志と言う方もいるが、神の意志はともかく、これからの未来は、自然を無視しての前進は困難を極めると思い知らされている。

プロの美容師への道

山野美顔教室

自粛で自宅に籠りPCを打ちながら、若き私の歩みに戻ってみたい。

 

美容師とは、国家試験を受け合格して初めて「プロの美容師」となる。

 

国家試験を受けるための必修授業として「学科授業」と「実習授業」があり、昼間部で合わせて1400時間以上の履修が定められている。

 

学校によって多少カリキュラムに違いがあるが、美容師として仕事をするうえでの基礎となる内容は共通している。

 

現在の美容学校は2年間の就学義務があるが、私が美容学校に通った当時は昼間部の1年で卒業できた。

 

その後は、インターンとして美容サロンに籍を置き、勤務することが定められていた。

 

ところが、私をはじめ私を応援してくださる支持者の方々、私自身も日本初の魅力研究家・美容家デビューを急務としていた。

 

そのため、協議した結果、本来私がインターンをするべきサロンに、籍だけを置かせて頂き、実際には、勤務をしなかったのだ。

 

あきらかに規則違反だ。大切なインターンをしないで、私は何をしていたか。

 

1年間で美容師として最低限の基礎知識は持った。

 

しかし、実際に魅力研究家としてデビューできたとしても、メイクやヘアをキレイに施術するまでの技術はない。

 

生徒の時代に、母や、義姉にカットやパーマをかける練習をさせてもらったが、時間ばかりかかり、我ながら褒められた仕上がりではなかった。

 

プロになるには、綺麗に仕上げられるメイク・ヘアで施術前より美しく変身させられる結果を表現できなければならない。

 

そこで、私は、各種美容学校の「専科」に通うことにした。

 

専科とは、自希望する時間だけ、自分で選択をした美容技術に絞り学べるシステムで、どこの美容学校にもあった。

 

もちろん日本美容専門学校にも専科はあったが、私は自分の視野を広げるためにまったく私を知らず、私の方も誰も知らない人々の中で学びたいと思った。

 

最初に選んだのは真野美容専門学校。

 

ピンカールを主体としたヘア専科を1ヶ月受講。次にハリウッド美容専門学校。

 

ここではメイクを初代校長メイ牛山先生に1時間だけのレクチュアを受けた。

 

そして、最後に選んだのが初めに入学を希望していた山野美容専門学校。

 

総合ヘア技術専科に入講した。初めて教室に入った時、私はしばらく呆然とした。

 

何というスケール感・・・・・・。

 

時に300人の受講生数になるという広い教室。

 

他の美容学校では感じた事のない壮大な雰囲気のなか、多数の生徒たちがモデルウイッグを机の上に置き授業が開始されるのを待っていた。

 

空席を見つけて席に着いた。

 

教室は満席で、20代、30代が多いが、40代、50代と思われる受講生もいて、教室内はひしめいていた。

山野美容専門学校

どんな人が指導をしてくれるのだろうと入口に注目した。

 

扉が開くと、辺りの空気が一瞬パーッと輝くような気がした。

 

「みなさんおはようございます」色白の美しい顔、優しい笑顔の口元から、明確に響く声で挨拶。指導講師の山野和子先生だった。

 

和子先生は、山野愛子校長の姪御さんで、その美貌と技術レベルは業界でも評判の方だった。

 

私は、一目で山野和子先生のファンになった。

 

もう一人の男性の瀬川先生は、日本美容専門学校時代の先輩のお兄さんだった。

 

弟さんは瀬川聖さんといい一年先輩。

 

卒業式に開催されたビュウ―ティショーでは、私がモデルで丸尾先生が詩を書いてくれた作品が新聞に掲載された。

 

この縁にも驚いた。

日美でモデルに

専科は、朝9時から夕方4時まで、3ヶ月通った。途中で夜間には「美顔教室」にも2週間学んだ。

 

こうして山野美容専門学校の専科で学んだ事が、後に私の運命を大きく転換する関係を生み出し、繋げていく「運命の糸」になっていった。

 

美容サロンに勤務することなく、独自に技術を学ぶ日々。

 

人様を美しく変身させる技術の難しさを身に沁みて感じるようになった。

 

「天職」に出会えたという喜びだけでは、この仕事はできないと感じ始めていた。

 

それを強く意識させられたのは山野和子先生の指導振りだった。

 

授業開始はまず先生が生徒の中からモデルを選ぶ。

 

そしてローラやピンカールで下巻きをする。ドライヤーで乾燥させて仕上げをする。

 

その間、わかりやすく説明をしながら、手は休む事無く的確に動かしている。

 

時々生徒たちの顔をみながら冗談を言う余裕もある。

 

常に笑顔を絶やさない。

 

そして、生徒たちが仕上げたセットを片端から修正してくれる。

 

立ちっぱなしのまま、個々の生徒たちに声をかけながら稚拙な技術を手早く修正していく手際の良さ、仕上げられたヘアスタイルが美しく変化していくのが「神業」に思えた。

 

人に伝えるという事はこのように、説得する力と納得させられる技術を持たなければならないと、和子先生にも瀬川先生からも刺激を受けた。

 

こうした時間を縫って、私はメンターの丸尾先生が指導監修する雑誌やテレビなどにモデルとして出してもらうことも多かった。

 

丸尾先生はそれまでに育成してきた方を、世の中に知らせるにはメディアを巧く動かすという強い信念と方策もお持ちだった。

 

私をモデルにするのも品川路子という名前を少しでも世の中に知ってもらう作戦のひとつだった。

 

私はモデルの仕事はとても楽しかった。

 

丸尾先生の魅力学の指導・監修内容は顔の表情、体の動きを重視する「表現」が多かった。

 

それには、私がミュージカル女優に憧れて学んで演劇術が多いに役立った。

 

私はこのとき、どんな事でも一生懸命に学んだことは必ず、役に立つのだと、無駄なことはなにもないと実感し、内心嬉しかった。

 

そして魅力学研究家・美容家としてデビューするには、徹底的に勉強しようと肝に命じた。

 

いよいよ、国家試験を受ける日が迫っていた。

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