【マダム路子・自分史(第17話)】新型コロナウィルスの危機に思う、自分史に残すべき”過去と現在”

「自分史」とは、自分の生きて来た道(過去)を改めて検証し、現在の自分の生き様に重ね合わせながら、時代の推移を綴ることのように思う。私が「自分史」を書きたいと思ったのは、第二次世界大戦。唯一の戦争被爆国となった凄惨な暴虐、被害を残すためでもある。私たちがどう生きてきたかを書き、次世代に残したいと願ったからだ。
2020/05/05

2020年、人生の大転換

前回までは「女優志願」だった青春時代の日々までを書いてきたが、急に思考回路が混線し、戸惑い不安と焦燥は脳内をパンク寸前に追いやった。

 

3月初旬の事態から、収束どころかさらに危険度は逼迫し、緊急事態宣言が発令された。

 

一向に収まらないコロナ感染者数、死者数。医療現場の状況。

 

そして、日々の生活をどうするかの対応策など。

 

これらのリアルニュースのあまりの大きさに、書きかけの原稿が先に進まなくなってしまった。

 

過去に体験してきた恐怖以上の事態が起こっている。

 

その現実に暗澹とし、書くべき言葉を見失ってしまったと言ったところだ。

 

今後、以前と同じような生活が戻ってくるとは考えられない。

 

政治、経済、交通、流通、コミュニケーション、文化、エンタ、生活運営のすべてが大変化せざるを得ない。

 

1940年の世界大戦から書き始めたこの「自分史」だが、現況の今を書き残しておくべきだというと気持ちが、それを超えて奮い立つ。

 

私自身「未だかってない」厳しい状況に立とうとも、「魅力学®」の伝承を通じ魅力人育成への「志」を捨てず、世情の如何なる変化も受け止め未来へとけん引する活動をやめてはいけないと、改めて決意を強くした。

女優志願志願への夢破れ

18歳の頃

劇団「エトセトラ」での公演で主役を演じた私だったが、ステージ上でセリフが詰まりアドリブでしのいだ。

 

満席の赤坂公会堂。満員の観客が大笑いしてくれた。

 

「良かった・・・・・・、何とか切り抜けた」と思った。

 

叱られるかも知れないという気持ちも少しは有ったが、内心、あれだけ観客に受けたのだから、演出を担当した丹下キヨコさんから褒められるかもしれないと、期待する気持ちのほうが強かった。

 

結論、丹下さんの怒りに触れ、勢いよくなじられた。

 

さすがに鋭く、私の心理を見抜いていると感心しながら、なぜか素直には受け止められない気持ちだった。

 

この日以後、私は劇団に行くのをやめてしまった。

 

心身共に気力を失い、実際に体調も優れず、寝ている事が多くなる生活になっていった。

 

しばらくすると劇団から連絡があった。

 

やめるにしても、続けるにしても、「飛ぶ鳥、後を濁さずよ」と、「挨拶だけはしなさい」と寝たり起きたりの私に、母は厳しく諭した。

 

山脇学園もすでに卒業、しばらくぶりに営団地下鉄の赤坂見付駅から劇団まで、足取り重く歩いた。

 

坂のてっぺんにある劇団「エトセトラ」。

 

「ミュージカル女優になる」と野心を抱き、レッスンに向かうため何度も登った。

 

入口を引き戸をスライドさせるとマネージャーのK子さんがひとりでにこやかに迎えてくれた。

 

体調不良を理由に退団をしたいと申しいれるとK子さんが、「丹下さんにこっぴどく怒られたことが原因で止める気になったのでしょう」と切り出した。

 

私はそうだとも、違うとも言わずK子さんの顔を見詰めてからうつむいた。

 

「あんな風に怒ったのはね、路子さんの才能を認めているからよ。

 

丹下さんは、陰でいつもそう言っていたのよ。次の公演でも主役をやらせるとも言っているわ。」

 

K子さんの言っていることは、嘘ではないと信じられた。

 

なぜか劇団の中でも目立つ私は、何かにつけて丹下さんや元宝塚男役の宮城千賀子さんのお二人に稽古中に指名され、見本演技をするように命じられることが多かった。

 

それは他の劇団員にとって、あまり面白いことではない。

 

本当は「怒った」と言うより、演劇での在り方、捉え方を教えたいという思いと、間接的にしかも劇団員の胸にも響くように叱ったのだ。

 

激情にかられ怒ったわけではないのだった。

 

丹下さんという恩師の気持ちは理解できたが、「退団」の意志を変えようとは思わない。

 

そもそも女優になりたいといという夢そのものに対する熱量が冷めてしまっていた。

 

こうして、私は劇団「エトセトラ」を退団した。

 

この後、劇団エトセトラは閉鎖され、丹下キヨコさんは日本でしばらく活躍し、ハワイに渡り終生暮らされたようだ。

 

宮城千賀子さんはレストランをオープンなさった。

ニキビ顔に絶望

本当のことを言うと、「女優」への道を歩む渇望がフェードアウトしていったもう一つの理由がある。

 

正直に告白しよう。

 

私が中学、高校時代から我が天職にしたいと頑張っていた、女優への夢を断念するほど追い込んだ、もうひとつ大きな理由。

 

それは、顔面を覆いつくすような「ニキビ」の出現だった。ニキビといえば青春のシンボルであり、発症は一時的で、時期が来れば治るのが普通だ。

 

その意味では、重大な影響を及ぼす病気ではない。

 

しかし若い頃の当人にとっては「見かけ」の印象中、もっとも目立つ顔に発症するニキビは、精神的ダメージを加味すれば、やはり重大な病気なのだ。

 

私は高校3年頃までは周囲の友達たちがニキビに悩む様子を見ても、自分には関係ないと自信をもっていた。

 

その奢りを支えていたのは、友人たちから私の肌を「卵のむき身」みたいな美肌として羨ましがられていたからだ。

 

その状態がガラリと変わったのが、周囲の友達がそれぞれ回復して行きはじめた頃から、今度は私の顔には真っ赤な発疹が出始めた。

 

そこからの勢いは素早く、あっと言う間にほぼ顔中を噴火山のように席巻していった。

 

何かにつけて強気な私だったが、ニキビ襲来には心底めげた。女優になるには「美肌」でなくてはならい。

 

当時流行していたブロマイドの女優さんたちの肌はうっとりするほどなめらかで美しいではないか。

 

毎晩祈るような気持ちで鏡を抱えて寝て、翌朝目が覚めたときには夢であって欲しいと祈った。

父と母

家族は、深く悩んでいるとは気がつかず、「じきに治る」と慰める程度。山脇学園卒業までニキビ肌は持続。

 

卒業すれば、好きにメークもできるので隠すことはできた。

 

しかし、それは「隠しているだけ」であり、本来の「卵のむき身肌」とは別のものだ。

 

私の心身の不調は中学時代から通っていた劇団のことや「エトセトラ」の中の人間関係、丹下キヨコさんに怒られプライドを粉砕されたことだけではないのであった。

 

私の女優志願は、華やかな芸能界で思うままの表現をして思い切り目立ちたい、有名になりたいとがんばってきたのだ。

 

自分の肌が醜い「ニキビ肌」に変貌し、簡単には治らないことへの絶望感が女優への熱い思いに水をかけられたのだ。

 

ある日、同世代の男子が自宅近くにたむろしていた。

 

私は嫌な予感がしたが、そこを通らないと家に帰れないので、うつむいて音を立てずに通り過ぎようとする。

 

数人いた中のひとりが私に近づき、声をかけようとしたので、私はプイと横を向いた。

 

すると男子は私の顎をつかみ私の顔を直視した。

 

「なんだ、凄いニキビ面、ブスだなあ」。

 

そういって仲間の輪にもどり、「ニキビ!ニキビ!」と全員で連呼。

 

この日から私は【対面恐怖症】になった。

 

誰にも会えない、会いたくないと思った。

 

また、人と向き合うと顔面が火照り真っ赤になる【赤面恐怖症】状態にもなった。

 

食事をすると、飲みこむときに空気も一緒に吸い込んでしまい、腹部が異常に膨張。息苦しくなる。

 

内科に診てもらうものの、なす術がない。

 

それが、大きなゲップが出ると急に腹部から空気が抜けて平らになるという、ばかばかしい奇妙な症状に苦しむなど、情けなく哀しいい体調に、18歳の乙女心は壊滅的に激しく損傷してしまった。

 

当然、ニキビの治療は皮膚科で受診。

 

「油もの、チョコレートを控える」「化粧はしない」などの想定内の注意事項と軟膏薬。

 

一向に効果は表れない。

 

勧められるままに漢方薬を調合してもらっても同じく効果なし。

一歩前に

母と私

こうした不健康状態で考えるのは、自分の将来の事だ。

 

8年間も寝たきり状態になりながら、8年を経てなんとか歩けるまでに回復した母には、妻として、母として生きている強い信念があった。

 

当時の私は母を敬愛していた。

 

しかし、母のように「妻となり子育てをする自分」というものを想像できなかった。

 

“誰かのために”ではなく“自分自身のために”生きたい。

 

しかし、こんな顔と体ではそれも叶わない。

 

それなら他力本願で誰かに頼る「結婚」という道を選び、それを見据えて花嫁修業に励むべきなのか。

 

迷いが深まった頃。

 

父は「読書をさせることが教育である」という考えを持っていた。

 

子供たちのために揃えてくれた「世界文学全集」をはじめ、ジャンルが異なる読書に埋没した。

 

有名な文学小説には「死」がテーマのものも多いことに気が付いた。

 

そうだ。最後は、どうせ人間はみんな死ぬ。

 

だったら、自殺してしまおうかと手鏡の中のニキビで赤く染まった顔に自問自答。

 

そんな私だったが母にだけは自分の気持ちをぶつけた。

 

母が私の抱える悩みを理解してもらえるかどうかは問題ではない。

 

ただ、グダグダと「こうでもないと、ああでもない」とぼやく娘の愚痴を、アイロンがけや縫物をしながら、母は淡々とした表情で聞いてくれた。

 

リュウマチの後遺症で指の関節もすべて折れ曲がり浮腫みもある。

 

それなのに母のアイロンは誰もが感心するの仕上がりで、縫物も、編み物も丁寧でプロ顔負けであった。

 

私が黙り込み母の手の動きを見詰めていると「路子は可愛いわよ」と、言った。

 

母のその一言と笑顔が私には一番の良薬であり効果があるようだった。

 

ある日、母が買い物に行くのに付き添って外出をした。帰りに本屋で雑誌「女性自身」を購入。

 

買ったものの、しばらく雑誌の事は忘れてしまっていた。

 

少し日を過ぎたあるとき、茶の間のテーブルで「女性自身」誌を見付け、ベッドに持ち込んだ。

 

何気なくページをめくった。

 

「あなたも美しくなれる」という広告文が目に飛び込んできた。

 

『クイーンチャームスクール・第2期生受講生募集』という文字を見て飛びおきた。

 

化粧品の広告文ならこれに似たキャッチコピーはよく見たことがあった。

 

しかし、この広告文は受講生募集。

 

クイーンチャームスクールという名前にも強く惹きつけられた。

 

すぐ資料を請求し、私は説明を聞きに大手町に出かけた。

 

瀟洒なビルだった。

 

説明をしてくれた事務の女性も美しく礼儀ただしい。

 

期間は3ヶ月。

 

毎週1回でとのことだ。

 

内容は美容からエチケットまで12項目あるという。

 

なんだかワクワクがとあらなかった。

 

ニキビが治らないからと自殺まで考える幼稚さから脱皮し、新たな道への光明を感じていた。

 

7月開講だった。

 

7月7日生まれの私が、

19歳という、十代最後の誕生日を迎えるタイミングた。

19歳。

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