【マダム路子・自分史(第5話)】家族は埼玉・蓮田へ。”東京っ子”の決意。

2018年の8月は、日本の天候史上もっとも暑い日が続いた。 私は2か月前(2019年6月)に港区から世田谷に引っ越しをしていた。79歳の私と夫75歳の老齢夫婦が、距離的に離れている地区に暮らすのを危惧した息子たちの思いからだった。
2019/09/05

港区のマンションは高層ビル。

巨大な絵画のように朝焼け、夕焼けの壮麗な景色をみせてくれた。

 

渡り鳥の一団が大きな円を描いて行くのをぼんやりと眺めるのが好きだった。

 

私の新たな住居となったエリアは、低層住宅地に指定されているためか、3階以上のビルやマンションを見ることはない。

 

賑やかなセミの声がテラスから響いている。

 

以前の高層マンションでは蝉の声など耳にしたことがなかったのでどこで鳴いているのかと外へ出てみた。

 

マンションの壁に、一匹の蝉が張り付いて身を震わすように鳴いていた。

 

たった一匹なのになんとまあ、大きな声だと眺めているうちに、私はあの日、あのときの風景に逃げ蝉のように飛翔していった。

 

そこは、埼玉県蓮田市の瓦屋根を作っていた工場の片隅に建てられた6畳一間の社宅だ。

1945年8月15日。

天皇陛下の玉音を富山県富山市の叔母の家で聞いた後、次の住居として父の会社が提供してくれたのが、埼玉県蓮田市だった。

 

瓦屋根工場の一角が社宅だった理由は、父が勤務していた会社が鉛管を製造していたので、戦前に長い形の鉛管をこの工場に預ける契約をしていたからだった。

 

私の家族は両親、兄3人、私と弟。

 

瓦屋工場の一角に建てられた住まいは6畳一間に押入れがあるだけだった。

 

電気はついていたが、水道は裏の井戸。洗濯は家の裏手にある川だ。

 

お風呂は3日か4日に一度、瓦屋一家の全員が入ったあとに使わせてもらった。

 

幼い5歳の私がしゃがんでも体全体に湯がかぶらないほどの湯量だった。

 

わざとというわけでもなく、湯量を増やすには水を汲み入れて、薪でたかなければならないから、仕方が無いことと思った。

 

父や兄が自分の着るシャツを床に広げて元気に跳ねるノミを取り押さえるのに四苦八苦していた。

 

私の頭にはシラミが取り付いていた。

 

あまりの不潔さに耐えられなくなった父が工場主に交渉。

 

そこにお風呂を用意することになった。

工場前にはかなり広い敷地があった。

まず父と兄たちはコンクリートで火をおこせるカマドを作った。

 

その上に大きなドラム缶を載せ、そこに水を汲み入れて入浴できるようにした。

 

いわゆる五右衛門風呂というスタイル。

 

足駄(下駄裏に2本の歯がついている)をはき、ドラム缶にさわると熱いと思いこんだ私は、缶の周囲に触れないように入れてもらい、そのまま体をまっすぐにして棒立ちになり湯を浴びた。

 

夕闇の迫る空を見上げた。星がキラキラと輝いている。月の光がまぶしい。

 

空に戦闘機が飛んでいるのがあたり前だった日々はもうない。

 

しかしその後、この五右衛門風呂に入った記憶はない。

 

水を汲み入れる事が想像していたよりも大変で、長続きしなかったのだろう。

4男の弟と新たに誕生した弟。(瓦製作工場前)

空爆に恐れる生活は終了したが、国民全体の飢餓状態は続いていた。

“田舎”と呼ばれる地域では多くが農家だったが、それは自給自足の手段であり販売することは殆どなかった。

 

そんな農家へは東京から物々交換を求めてくる人たちが後をたたない。

 

交換は、米一升に豪華な着物や金時計などだが、そもそも家を焼かれてしまった多くの人々には、物々交換する品物も無い。

 

それどころか、汽車に乗る切符を手にいれるのも一苦労。

 

汽車に乗れても車内では検閲が行われ、見つかれば即刻、「配給制度への反発」として手に入れた食料を没収されてしまう。

 

私たち5人きょうだいは、食べ盛りだ。

 

両親は近所の農家を回ったり、兄たちは、従軍で息子を失った家の手伝いなどをして、現物給与のように作物をもらったりしていた。

 

私も食べられそうな草を刈り、カエルやイナゴをつかまえたりした。

そんな生活の中で3男の兄が、亡くなった。

母がおもゆを食べさせてもほとんど口にしない。

 

カエルやイナゴは完全拒否だ。

 

村にひとりしかいない医者は「栄養失調」と診断した。

 

あの富山市の空爆を受け、乳母車に3男と私を乗せ避難するとき防戦団長の指示に反し、反対側に逃げて命を取り留めた。

 

その兄が亡くなった。

 

兄がいなかったら日赤病院側(3000人死亡)に逃げていたかもしれない。兄は私たちを救い、天命をまっとうして亡くなったと、家族は遺骸に手を合わせた。

 

しかし、その兄を寝かすお棺などあるわけもない。

 

富山県にはまだ土葬が残っていたので、8歳で亡くなった兄を墓地に運び、土に返したのだった。

 

それから幾日たったのか記憶にないのだが、今度は私が高熱を出し、一日中咳込んで苦しむ状態になってしまった。

家族は兄の死に続く、私の病気に恐怖心を持った。

村のひとり医者は私の病気を「百日咳」と診断。

 

強い喘息のような咳が続くので、体力消耗が激しい。

 

私はついに危篤状態になった。

 

医者から宣告され家族全員が狭い6畳間に私の寝ている布団の周りを囲んだ。

 

そのときの私の意識は天井の上から家族の姿を見ていた。すると、部屋の片隅に二人の人影がボーと見えた。

 

私はだれだろうと目をこらすと、先日先だった3男の坊主頭の兄だ。

 

ではその隣の人はとさらに目を凝らすと、父方の祖母だ。

 

しかし、私はこの祖母にはあった事がないのだ。それでも、祖母と確認できたのは、私が生まれた日本橋の家の仏壇に飾られていた遺影で、父から祖母のことを聞かされていたので記憶にあったらしい。

 

突然大きな声で「路子!」と呼ぶ声と泣き声が聞こえた。父の顔が私の顔の真上にあった。医者が「峠を越えました」と言った。

 

私が兄や祖母の亡霊と兄に会っている頃、私がひきつけをおこし舌をかみそうになるので、人差しと中指を私の口にいれていたそうだ。

 

ひきつけが落ち着いたときに父の指を抜いたのだという。

 

私は今見た2人のことを話すと「迎えにきたかもしれないな」との言葉に家族はうなずいた。そういえば二人は「こちらにくれば楽になるよ」と手招きをしていた。

 

しかし、私は肉体的な痛みや、苦しみも何も感じていないので、どうするかな~と考えたりした。

 

そして父の「路子!」の声で現実にもどったのだ。

 

この話を大人になってから話すと「幻覚でしょう」とか、創作とか言われる事が多いのであまり言わない。

私は大人も驚くほどの回復力で、

相変わらずお腹の空く状態ではあるが、元気になった。

 

狭い部屋にいるのは退屈なので、私は3歳年下の弟の手をひき近くの神社にいってどんぐりを拾ったり、すぐそばにある竹林でもぐらをみたりして遊んだ。

 

もう、夏も終わりかけていたが、ミンミン蝉の大合唱はまだまだ勢いがあり、神社の境内に響きわたっていた。

 

賑やかな鳴き声に包まれていると、孤独感が強く押し寄せて泣きそうになる。

 

村の子供たちは理由もなく「東京っ子」とはやし立て、追いかけてきて、私はミカンの木に登って逃げたこともあった。

 

どんなに寂しくてもイジメに合おうとも弟は守る。

 

そんな日々の中、私は母の妊娠を告げられた。

 

富山からおばあちゃんが手伝いに来てくれていた。

 

苦しい生活だったが、家族が増えるのは嬉しかった。

その日、母は大きなお腹を抱えて用をたし、やや高めの土間から座敷へあがった。

産婆さんとおばあちゃんだけが室内に残り、私と弟は外に出された。

 

父や兄弟は出かけている。

 

しばらくすると「オギャ」という元気な赤ちゃんの声が、誰もいない工場に響いた。

 

私たちが座敷に上がると元気な男の赤ちゃんが母の隣に寝かされていた。

 

しかし、母は苦痛に歪んだ顔のまま、見動きしない。

 

お産婆さんやおばあちゃんが声をかけても母は返事をしない。

 

新しく誕生した元気な弟は早速おっぱいを探して母の方に顔を向け泣くのだが、母の体はおっぱいを飲ませる態勢に変化しない。

 

お産婆さんやおばあちゃんがさらに声をかける。

 

私はなんだか恐ろしい予感が胸一杯に広がり、いても立ってもいられなかった。

 

帰宅した父や兄も心配と不安が交錯する中で、村でひとりの医者の診断を仰ぐと「産褥熱」の診断。

 

私とおばあちゃんは母の乳房から乳を搾り赤ん坊に飲ませた。

 

母の高熱は続き、ようやく話が出来るようになったが、全身が動かない寝たきり状態になってしまったのだった。

母はこの出産によって、全身の関節リウマチに罹患してしまったのだ。

新たな兄弟の誕生は、亡き兄の生まれ変わりのような喜びもあったが、まだ35歳の母が寝たきりになってしまうという悲劇は、幼い私にも今後の生活の困難さが十分に予測できた。

 

それがどんなに苦しくても、3歳年下の弟と今回生まれた5男の弟も私が守らねばならないと自分に言い聞かせていた。

 

私はまだ富山市にいるとき、弟に一生治らない深い傷を負わせた罪人なのだ。

 

そんな私を決して責めなかった両親の私への愛。

 

その愛へのお返しをしなければならない。

 

私と同じように兄弟たちを愛する両親への孝行だと決意したのだった。

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