【マダム路子・自分史(第2話)】~あの日、あのとき、あの笑顔~ 7月7日に生まれて

2019/07/18

1940年7月7日東京都中央区日本橋中洲で、

品川五悦郎35歳、妻花子28歳の長女として誕生。

 

日独伊が3国同盟を結び、アメリカ、中国との戦いも予断を許さず太平洋戦争が苛烈になる萌芽が、世界的に高まっていた。

 

そんな時代の七夕の日に。

 

兄3人の下に生まれた女子の私は、一家のアイドル的存在として迎えられ、特に父の溺愛ぶりは母も呆れるほどであったと後年よく聞かされた。

 

父は仕事から帰るやいなや、私を抱きあげると「誰かにいじめられなかったか」と、腕白な兄たちを睨む。

 

ほんの少しのかすり傷でも見つけようものなら「お前の目は節穴か」と母をなじったりしたそうだ。

 

現実には、父が懸念するようなことはなく、長男とは10歳、次兄とは8歳、3男とは3歳と離れおり兄弟たちにとっても私は「可愛い妹」というポジションだった。

父が勤務していた日本鉛管製造株式会社は、

1899年に男爵・郷誠之助が設立した会社だと言うことが父の自慢だった。

 

郷誠之助は明治後半から大正、そして昭和戦前期にかけて、財界世話人として経済界の表裏に活躍した人物である。

 

父の勤務していた時代はすでに2代目となっていたようだが、詳しくは聞いていない。

 

母は専業主婦で両親共に子供を慈しむ極く平凡な家族のはずだった。

日本橋中洲の家は

父の会社の社宅で2階に2部屋、1階に2部屋という構造。

 

3歳になった頃、私は家の中である不思議なことに気がついた。それは3男の兄が常に2階の一間に寝ている事だった。

 

3歳ともなれば、自分ひとりで階上に行くことができた。

 

「お兄ちゃん、起きなさいよ」と言ってもよだれが流れる顔を拭いもせず、兄は視点の定まらない目を泳がせるだけなのだ。

 

私が、両親や二人の兄に3男はなぜ2階に寝っぱなしなのかとたずね、答えも聞いたのかもしれない。

 

だが幼い私には理解できなかった。ただ、尋常ではないことは兄の姿形から判断はできた。

 

兄(三男)の手足は奇妙な形にくねくねと折れ曲がり、よだれが流れ続けている唇からは、まともな言語が発せられることは無かった。

 

私はそんな兄の顔を見に2階に上がり、もの言わぬ兄によく話しかけた。

ある日、私は大好きな人形を持って2階の兄の部屋に行った。

そして、可愛いでしょうと人形の手足を動かし兄に見せた。

 

すると兄が大きなうなり声をして、動かぬ手足をばたつかせようともがいた。

 

ただらぬ奇声が階下にいた母に届いたのか、音をたてて母が階段を上がってきて「路子、何をしているの」と激しく私を叱った。

 

私は兄の顔の形相にも動転したが、母の怖い顔つきにもさらに驚き、ワアーと泣き出した。

 

母は私の泣き声で我に返ったのだろうか、私を抱き上げ「アキラはね、このお人形が怖かったのね」と私の頭を撫でた。

 

この時から、私は兄が普通の子供ではないが、何らかの感情が動くのだと少しずつ理解をしていくようになった。

 

自分ではままならない体の息子を父は両腕にしっかり抱き、お風呂に入れているのを見て、お父ちゃんは私だけではなく、お兄ちゃんも大事な存在なのだと気がついたのだった。

当時、ご近所で情報を共有する方法は回覧板だった。

回覧板を読む度に母の表情は硬く強張り、時々遠くを見るような難しい顔をするようになった。

 

何か非常事態が起こっているのは、以前よりもゴハンのおかずが少なくなったことでも体感できた。

 

衣類なども、新しい布は買えないようで、母は私や兄たちに着せる洋服なども、母は父の洋服をほどき、縫い直したりして工夫していた。

 

できるだけ私たちを「こざっぱり」とした見た目の服装にさせてあげようと気遣いをしていた。

 

特に、女の子の私の装いには「可愛さ」を採り入れたデザインをしてくれた。

 

子供心に、不穏な日々を感じ取ってはいたが、その不安の鯨飲は幼い私には理解が及ぶところではなかった。

 

七五三の時には「写真館」での記念撮影もしてもらった。

 

自宅近くで日の丸を背に、同じく七五三の撮影を父がしている。

混迷を深め、戦争が始まる予感が日増しに高まる日々だったが、

エンタメ好きの父は、まだ3歳の私や兄を自宅から近い歌舞伎座や、明治座、新橋演舞場のお芝居に連れて行ってくれた。

 

東劇という映画館にも連れていってもらった。

 

加山雄三さんの父上、美男俳優としても有名だった上原健さんの大ヒット映画「愛染かつら(1938年公開)」の恋愛映画も観劇した記憶がある。

5歳になった私はある日、

隣組みの家の娘さんと中洲の公園に遊びに行った。

 

誰もいない、私たちだけだった。しばらくするとすでに経験していた空襲警報が鳴り響いた。

 

私と友達は手をとりあい中洲橋を渡り、力の限りを尽くして家に向かい走った。

 

息せききって家に着くと、私の母も、友達の母も仁王立ちで道に立ち「勝手にどこに行っていたの」と大声で叱られ、お互いの母親に連れられて、防空壕に逃げ込んだ。

 

すでに私が生まれた翌年、1941年12月8日未明、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対し、日本軍は攻撃し戦下にあったのだ。

学校では学童疎開がなされ、

近所の人々も徐々に故郷に避難することが多くなっていた。

 

長男の兄も学校では勉強もせず、塹壕ほりに従事していた。

 

夜でも電気をつける時には、黒い紙か布を貼って光を消した。

 

空軍の標的にならないためだ。

 

また、ある時には水天宮神社前で「千人針(特攻隊兵士の無事祈願)」を母と共に道行く人にお願いしたりもしていた。

 

そんな緊迫した中で幼い娘二人が公園に行くなど母たちも自省したのか、その友達とも簡単に行き来できなくなった。

 

突然、警報が鳴った!

 

窓の外が真っ昼間のように明るい。

 

空爆を受けた家がメラメラと燃え上がっている。

 

私はこのありさまを目にして、戦争というものがどんなに恐ろしいものかと、幼いながら肌で感じ、インプットをした。

 

両親は、私と次兄、三男と私の後に生まれた2歳の弟と5人で夫婦の同郷である富山県に疎開することを決めていた。

 

父と長兄はこの家を守るのと、長兄の学校の軍の奉仕活動を抜けることはできず残ることに決まった。

空爆はますます勢いを増していて、

誰の目にも手作りの防空壕など、なんの役にも立たないことを実感させられていた。

 

もうすぐ、富山に発とうとしていた時のことだった。

 

公園に一緒に遊びに行った友達の家に呼ばれた。

友だちに会えるのかと母にたずねると母は唇を噛みしめ、目に涙をためて私の顔を見詰めるだけだった。

 

友達の家に行くと友達は布団に寝かされ微動だにしない。何が原因だったのかわからないが、友達は急死したのだった。

 

悲しむ前に「なぜ、どうしてお話しができないの」と「死」というものの理解ができない私は茫然とし、正座をして物言わぬ友の顔を見詰めているうちに涙が沸いてきた。

 

  感傷に浸っている間もなく、お通夜の挨拶とお互いの家族の無事を祈りお別れした。

 

昨日まで存在していた家がひとつ、またひとつと空爆で消されていった。

 

私が疎開先の富山県富山市で避難訓練にバケツリレーや竹槍でひとり一殺なんて演習しても、何の効果も無いと思っていた理由は、東京大空襲ですでにその脅威を知っていたからなのだ。

 

母にもわかっていたが、地方都市では東京人は白い目で見られがち。

 

余計な事を言って悶着を起こさないために、母は弟をおぶい、学校に行っていない私の手を引いて、効果なき、虚しき防災訓練に参加していた。

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