【人生100年時代を楽しむために、知っておきたい日本の歴史】「戦国武将の長寿法」独眼竜・伊達政宗。

人生100年時代においては、様々な健康法が存在します。 しかし、寿命が今と比べると数十年も短かった時代には、科学的な根拠のない、いわゆる「言い伝え」のような長寿法を信じ、取り組む人が多くいました。 中でも、戦国武将として知られる伊達政宗には、たくさんのエピソードがありますが、なかでも興味深いのは医術や食に関するものです。生涯を通じて持病を抱えていた政宗は、医術に対する関心が高く、日頃から食事に関心を持ち、「医食同源」を実践して長寿を保ったのです。
2019/06/23

南奥羽の覇者から六二万石の大守へ

永禄一〇年(一五六七)八月三日、出羽国米沢(山形県米沢市)で一人の武将が誕生しました。

 

後に「独眼竜」の名で知られるようになる伊達政宗です。

 

幼時に病によって右目を失いながらも、奥羽の名門伊達家の跡取りとして文武の修養を積んだ政宗は、一八歳にして伊達家の家督を相続します。

 

伊達家の当主となった伊達政宗は、父・輝宗時代には同盟関係にあった会津の戦国大名・蘆名氏と対立するようになり、蘆名氏とその同盟者である常陸の佐竹氏、そして蘆名・佐竹の同盟に同調した南奥の諸領主たちとの戦いが続くようになります。

 

さらに、伊達家の領地の北に位置する最上氏や大崎氏とも対立するなど、政宗は厳しい政治状況にありましたが、優れた情報収集力、卓越した外交手腕によって、逆に蘆名氏や南奥の領主を滅ぼしたり服属させたりし、数年にして南奥に大きな領国を作り上げました。

 

しかし、時あたかも豊臣秀吉が全国統一を成し遂げる最終段階にあたり、政宗も秀吉への服属を余儀なくされます。

 

拡張した領地の多くを没収され、さらにその後には先祖伝来の本領の多くを収公され、代わりに現在の宮城県北から岩手県南にかけての地を与えられた政宗は、岩出山(宮城県大崎市)に居城を移し、さらに関ヶ原の戦い後に仙台で居城と新たな城下町の建設に取り掛かり、ここに仙台藩六二万石の礎が置かれたのです。

 

この後、伊達政宗は仙台の城下町建設や領国整備に熱心に取り組みますが、一方ではヨーロッパへ家臣・支倉六右衛門を派遣するなど、他の大名には見られない行動をとりながら、寛永一三年(一六三六)五月二四日、江戸の上屋敷で、七〇歳の当時としては長寿を全うしています。

さまざまなエピソード

伊達政宗は、日本有数の大名・武将としてだけでなく、数多くのエピソード、逸話を持つことでも知られています。

 

また彼自身、たくさんの手紙を書き、その内容が判明しているものでも約四千通におよんでいます。

 

さらに、側近が書き残した彼の言行、そして同時代に第三者が書きとめた記録や文書によっても、政宗の姿をさまざまに見ることができます。

 

しかし、そうして今に伝えられた伊達政宗の行状やエピソードの中には、歴史的に事実と認められない、あるいは明らかに後世の創作と思われるエピソードも少なからず存在します。

 

とくに、小説やドラマで必ず取り上げられる、豊臣秀吉との対面時に死に装束で赴いたこと、謀反の嫌疑をかけられて上洛する際に金の磔柱を押し立てて行列したことなどのような、いかにも政宗らしいと思わせるエピソードは、同時代資料では確認することができず、どうも後世に創作された話のようです。

 

また、仙台味噌やずんだ餅、はらこ飯など、宮城県や仙台の名産品となっているもの、仙台七夕や仙台すずめ踊りのように仙台の風物詩となっている行事が政宗ゆかりのものであるという話の多くは、近代以降に観光と結びつけて創作・捏造されたものなのです。

伊達政宗

政宗の持病

最近、伊達政宗に関するエピソードとしてしばしば注目されているのが、健康と食に関する分野です。

 

この二つの分野については、確かな史料に基づいて、近年明らかになってきたものが多く、比較的信憑性があると思われます。

 

伊達政宗の墓所である瑞鳳殿が再建される際に墓室の調査が行われ、政宗の遺骨が見つかり、身長一五九センチメートル、血液型B型、やや面長の風貌で、左足に骨折が治癒した痕が確認されました。

 

骨折については、二三歳の時に落馬が原因で足を痛め、しばらく小野川温泉(山形県米沢市)に逗留して洋上したという記録があり、それが事実であることが確認されたのです。

 

このような、遺骨から確認できる特徴のほか、複数の史料で確認できる政宗の身体面の特徴として、長年にわたる持病を抱えていたことがわかっています。

 

政宗はしばしば「虫気(むしけ)」で苦しんでいるさまを手紙に書き記しています。

 

「虫気」とは、胃腸の不具合のことで、腹にいる虫が悪さをして痛みをもたらしているという意味です。「虫気」で苦しんでいることを書いた政宗の手紙は、二〇代から晩年まで、政宗の生涯を通じて断続的に残っており、「虫気」が政宗の持病であることは家臣たちの間でも広く知れ渡っていたようです。

 

それを逆手に取った政宗は、前日に飲み過ぎて二日酔いになった際「今日は二日酔いで苦しいので、自分に会いに来た家臣がいたら虫気だと言って帰すように」と側近に書いた手紙が残っています。虫気だと言えば家臣もみな納得するだろう、という政宗の作戦でした。

医術への関心

一生を消化器系の持病に苦しんだからか、伊達政宗は医術に対して高い関心を持っていました。

 

どのように習ったのかはわかりませんが、身近に仕える女房(侍女)が病気になった時に、政宗は自ら脈をとりながら問診し、どんな薬が良いか、処方箋を書いたこともありました。

 

政宗は医術の基本的な知識をしっかりと身に付け、実践していたのです。医術に通じた戦国武将というと徳川家康が有名ですが、政宗は家康に負けず劣らずの医術的知識を有していたことは間違いありません。

 

政宗がどのようにして医術に通じるようになったかは判然としませんが、後半生には高屋快庵やその甥の松庵という医師が政宗に近侍し、医術にとどまらず、政宗の側近として仕えています。

 

高屋快庵は薬箪笥を政宗から拝領したりもしています。彼らとの日常的な交流が自然と政宗に医術の知識を身につけさせたのかもしれません。

食へのこだわり

グルメ大名としても知られる伊達政宗

近年、テレビ番組などで伊達政宗を「グルメ大名」と紹介することがあります。伊達家の正月儀式の料理や、将軍を迎えた際に準備した献立を記した史料が幾つか残っており、その豪華さから「グルメ」と評しているようですが、これはちょっと的外れの評価です。

 

伊達家は伝統ある武家の家柄ですから、折々の儀式の際には室町時代に確立した武家文化の礼法に従った食事が準備されたのであり、将軍などの賓客に対しては、日本有数の大名として最大限の宴席を設けたまでのことで、「グルメ」とはちょっと意味合いが違うのです。

 

実は政宗は「客を招く際には、たくさん料理を出せば良いというものではない。客の好みを承知したうえで、〝今日はこの一品を〟という料理を準備し、説明したり、自ら最後のひと手間をかけたりして客に出すのが本当の〝ごちそう〟というものだ」と側近に語り聞かせています。

 

また政宗は、「料理心が無いというのは、つたないことだ」と言い、季節季節には知人に国元で採れた鮎や鱒の鮓(塩と麹で漬けたもの)、鮭の塩引(塩鮭)を贈り、それに添えた手紙で食べ頃や食べ方についての注意を書き記しています。

 

自ら料理をするからこそ、季節のものを美味しく食べることの大切さを相手に伝えようという政宗の気遣いを、こうした手紙は明白に伝えてくれます。

 

政宗は「朝夕の食事は分に従って食べるのが養生=長生きにつながるものであり、時にも心にも合わないものは食べるべきではない」とも言っています。

 

いろいろと解釈できる言葉ですが、日頃から食事に関心をもち、時にあったもの、すなわち旬の食材を大事にし、あるいは体調に応じたものを自ら選んで食するべきで、無理に食べたくないものを食しても体に良いわけはない、という意味でしょうか。

 

これは政宗流に「医食同源」を言い表したもので、こうした意識で生活することで、政宗は七〇歳の長寿を保ったということができるでしょう。

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