【人生100年時代を楽しむために、知っておきたい日本の歴史】起源は約1500年前。歴史的に見た、将棋の成り立ちと変遷。

高校生棋士の藤井聡太七段の活躍と人気によって、今や将棋はブームになっている。 各地の子ども将棋教室は盛況で、将棋イベントでは「観る将」と呼ばれる若い女性が目立っていて、新しい愛好者が増えている。 将棋は日本の伝統的な娯楽で、起源は約1500年前のインドに遡るといわれている。 人生100年時代。シニアの皆さまでも知りえない情報をお届けしようと思う。 そこで今回は、将棋の成り立ちと今日までの変遷を、歴史的に見ていこう。
2019/05/23

日本独自の将棋が室町時代に定着

将棋の原型はインドで生まれた

将棋の起源は、文献資料では7世紀(紀元前の説もある)のインドに遡るという。

 

その原型は「チャトランガ」という双六のようなゲームだった。駒は「王」「戦車」「騎兵」「象隊」「歩兵」の5種類で、軍隊を模したものだ。その後、世界の東西各地に伝播していき、様々な形のゲームに変わった。

 

ヨーロッパでは強力な駒の「女王」が登場し、現代の「チェス」が生まれた。「中国将棋」には、盤の中央に揚子江と思われる「河」がある。

 

日本の将棋の原型は、以前は中国から伝わったといわれた。現在は東南アジアを経由した見方が定説で、その時期は判明していない。

 

現存する最古の将棋の出土品は、奈良・興福寺の旧境内跡で発見された15枚の駒で、木簡には天喜6年(1058年)と書かれていた。

 

それから推察すると、平安時代の頃には将棋は公家や僧侶に愛好されていたようだ。

 

鎌倉時代には、歌人の藤原定家や公家の日記に、将棋に関する文章がよく書かれていた。なお、当時は「大々将棋」(縦横17升・駒数192枚)、「中将棋」(縦横12升・駒数92枚)など、盤が広くて駒数が多い将棋があった。

画期的なルールの駒の再使用

現代の将棋(縦横9升・駒数40枚)が定着したのは室町時代の頃で、相手から取った駒を自分の「持ち駒」として再使用できることになった。

 

ヨーロッパのチェスやアジアの将棋、日本の中将棋などにもない、画期的なルールが導入されたのだ。それによって、将棋というゲームは複雑になって妙味はいっそう深まった。

 

民族、言語、宗教などが異なる国の戦争では、勝者が敗者を殲滅してしまうことが時にあった。しかし、同じ民族が住む島国の日本の戦争では、敗者が勝者に忠誠を誓えば、勝者の家臣に変わることは珍しくなかった。そうした風習から、「持ち駒」という独自のルールができたのだろう。

 

ちなみに、将棋の駒の多くは、宝石や昔は貴重だった香料が由来になっている。「玉」「金」「銀」をはじめ、「桂」は肉桂(シナモン)、「香」は香木である。将棋は、それらを取り合う経済の戦いでもあった。

信長、秀吉、家康らの武将が将棋を奨励

秀吉が催した壮大な「人間将棋」

平安時代や鎌倉時代の頃は、主に公家や僧侶が将棋を愛好した。室町時代から戦国時代に移ると、将棋は戦略に役立つということから、武将は戦いの合間に将棋を指し、家臣や兵士にも奨励した。

 

織田信長は天下統一をめざした天才的な武将だったが、文化的なものにも関心を寄せた。茶の湯、舞、相撲などのほかに、将棋と囲碁の名手を城や戦陣に招くことがあった。将棋の大橋宗桂は、駒の「桂」の使い方が巧みなので、信長に桂の字を名前に与えられた、という話もある(実際は作り話のようだ)。

 

信長は本能寺の変の前夜にも、家臣の将棋や囲碁を観戦していたという。明智光秀に強襲されてあっけなく横死した信長を、江戸時代の庶民は「本能寺 端の歩を つくひまはなし」と川柳に詠んだ。

 

将棋に例えて、端(1筋・9筋)の歩を突いて玉が上部に逃げ出す暇もなかった、という意味である。

 

信長の遺志を継いで天下統一を果たした豊臣秀吉も将棋を愛好した。

 

それを象徴する催しが、人間を駒に見立てた「人間将棋」だった。伏見城の広大な庭に升目が引かれ、駒の図柄を染め抜いた着物で着飾った40人の美女が、秀吉と甥の豊臣秀次の将棋の指し手に応じて動いたという。

 

実に壮大な光景が思い浮かぶ。その人間将棋は、現代でも駒の産地で有名な山形県天童市の恒例イベントになっている。

 

また、秀吉は朝廷へのご機嫌取りに、「駒の王将の王の字は恐れ多いので、大将に変えたい」と申し出たこともあったという。

家康が「将棋所」を設けて棋士に扶持

江戸幕府を興した徳川家康も将棋を愛好した。慶長17年(1612年)には「将棋所」と「囲碁所」を設け、将棋と囲碁の棋士に扶持を与えた。

 

現代に例えれば、国家が「将棋文化研究財団」を設立し、所属する棋士を経済的に助成する制度である。家康は、戦乱が長く続いたので平和を希求していた。

 

荒武者たちの心を和ませたり、庶民が娯楽を楽しめるように、将棋を奨励したのだと思う。

 

こうして棋士は、一介の将棋指しから士分に取り立てられ、大橋家、伊藤家などの家元が生まれた。その中から、前記の大橋宗桂が一世名人に就いた。幕府の庇護によって、棋士の生活は安定した。将棋の研究に打ち込み、武士や町人に指導して将棋を広めた。

 

家元の棋士は江戸城に参上し、将軍らの御前で将棋を披露する「御城将棋」が恒例の行事になっていた。八代将軍・徳川吉宗の時代には、その式日は11月17日と定められた。日本将棋連盟は44年前にその故事を基にして、同日を「将棋の日」と定めた。

 

私たち将棋の棋士が今日に存在しているのは、このように家康公の将棋への理解が深かったことから始まった。

新聞社の協賛を得て日本将棋連盟の運営が確立

名人戦と順位戦の創設で人気が高まる

260年も続いた江戸時代が終わり、幕府の庇護を受けていた家元の棋士は後ろ盾を失って困窮した。しかし、明治時代後期に時事新報、万朝報などの新聞社が、棋士の対局の棋譜を掲載すると、読者の評判を呼んだ。それが契機となり、棋士の団体(現在の日本将棋連盟)が新聞社に棋譜を提供して協賛金を得る、今日までの運営システムが昭和時代初期に確立された。

 

昔の将棋名人は、死ぬまで在位する終身制だった。そのために、後継者が名人に就いたとき、高齢で全盛期を過ぎているケースが生じた。

 

昭和10年(1935年)に大改革が成された。時の名人が決断して勇退し、実力で名人を争う「名人戦」という棋戦が創設された。

 

その新制度によって名勝負が繰り広げられ、将棋の人気が高まっていった。後年に、木村義雄、大山康晴、中原誠、谷川浩司、森内俊之、羽生善治らの「永世名人」(名人を通算5期獲得が条件)が生まれた。

 

戦後まもない昭和21年(1946年)には、名人戦の予選に当たる「順位戦」が創設された。戦前は「段位」で棋士を格付けした。しかし、段位は下がらないので、低段者が高段者より強いという事態が生じた。

 

順位戦制度は、ABCの「クラス」で棋士を格付けするもので、時々の実力を反映した。強い若手棋士は台頭しやすくなり、成績が悪い棋士はクラスが下がって収入が減った(降段はしない)。そうした勝負の世界の厳しさが将棋ファンに受け、棋士も切磋琢磨するようになった。

棋士と将棋ソフトは共存関係に

こうして将棋の歴史をたどってみると、約1500年前にインドで生まれたゲームを端緒として、現代の日本で将棋が長いこと愛好されていることに、私は何か不思議な気がする。持ち駒のルール、徳川幕府の庇護、新聞社の協賛、名人戦と順位戦の創設など、時々の契機が良い流れになってきたのだと思う。

 

日本将棋連盟は、読売新聞社、朝日新聞社、毎日新聞社などのメディアとの棋戦契約金を主な財源として安定的に運営してきた。しかし、将来的に先細りが懸念されている新聞社に頼っている形態は、今後はいずれ大きな課題になるだろう。

 

さらに、人工知能を搭載した将棋ソフトが驚異的に進化している。名人とソフトが対戦した2年前の「電王戦」では、ソフトが圧勝して底知れない強さを発揮した。

 

棋士の存在価値が問われかねない状況である。しかし、棋士がソフトを利用して新たな戦術を引き出したことで、将棋の奥深さが再認識されている。今後は、棋士とソフトの共存関係が続くだろう。

 

遠い将来のことはわからないが、新星棋士の藤井聡太七段がずっと活躍できるような環境であってほしいと、私は願っている。